蔵内くんはやさしい。知っていたけど、改めてそう思う。メッセージのやりとりは、いくら見返しても飽きない。この時もっと気の利いた返信をしていたらよかったなんて反省はするのだけど、結局うまくいかない。
 気軽に会えないからこそ軽率に連絡を送るわたしを、迷惑に思っているかもしれない。でもそんなことを気にしていて消えてしまう関係だとしたら、かなしすぎるから、次に会える時までは許してほしい。
 蔵内くんは水族館が好きなのだと聞いた。いつか都内の水族館にも行きたいと言ってくれて、その時は案内するよなんて見栄を張った。この人の多さにも、電車の乗り換えにも、まだまだ馴染めていないけど、蔵内くんとこの街でいつか会うために、早くいろんなことを覚えたいとも思った。
 大学生活は、大変だけど楽しい。一人の生活も、少しずつ慣れてきた。それでもまだまだ寂しいと思うことはあるし、生まれ育った三門が恋しいとも思う。帰省するには早すぎるから、蔵内くんと東京で会うことを考えながら過ごす。そうすれば、夏休みなんてきっとすぐ来るはずだ。


 新しく買った服を、結局着ることができなかった。お店で試着したときはあんなにいいと思ったのに、家に帰って自分の持っている服と並べていたら、すごく恥ずかしく思えてきて、着るのをやめた。好きな人に数か月ぶりに会えることになったからと言って、気合が入りすぎても引かれてしまうんじゃないかと怖くなった。歩きやすい靴に合わせると不格好に思えてしまったのも大きい理由だった。我慢してでもヒールのあるサンダルをはこうかとも少し考えたけど、迷惑をかけたくないからやめた。
 大人っぽい金額も高いワンピース。三門にはないお店の洋服。ネット通販がある時代だけど、聞いたこともないブランドのネット通販なんてそもそも見ないから、東京に住むようになって選んだ一枚。そう思うだけで、高校生にはもう戻れないなと思った。
 行きたい大学が東京にあっただけだと思っていたけど、本当は東京に憧れがあったのかもしれない。想像以上に東京が好きになっていたし、街に溶け込もうとしていた。地元を離れないことにした友達が知ったら、びっくりするかもしれない。
 蔵内くんは、こんなわたしをどう思うだろうか。
 卒業式で終わるはずだった関係。わたしの気持ちはきっとバレてると思う。ただの友達でいるなんて向こうも思っていないだろう。そう思うけど、最後に会ったあの日の蔵内くんを思い出しては、そう思ってなんていないかもしれないと頭を悩ませる。会いたいと、思ってくれた気持ちの向こうには、どんな感情があったのか、わたしにわかるはずもない。なのにやっぱり、自分に都合のいいことを期待してしまう。
 いろんな場所からアクセスできる観光名所への待ち合わせは、蔵内くんが来やすいところにしたら案の定、わたしが迷子になった。時間よりも前に駅にいて、出迎える気持ちでいたのに。せっかく整えてきた髪型もきっともう変になった。あのワンピースを着てこなくて正解だったかもしれない。あまりにも、不釣り合いになってしまっていただろう。
さん」
 後ろから肩を叩かれた。このやさしい声がとても懐かしく思って、振り向くのを忘れた。回り込んでくれた蔵内くんが目の前に現れて、小走りでやってきて暑くなっていたけど、また、ぐんぐんと体温が上がってしまった。
「久しぶり」
「う、ん……ひさしぶり。ごめんねバタバタして」
 あんまり変わっていない。大人びていたのは高校の時からだし、そんな半年足らずで変わってしまうような人ではない。
「暑いし、すぐ中入ろうか」
「うん」
 案内すると言っていたのに、結局蔵内くんがリードしてくれて、自分のことをダメだなあと思いつつも、蔵内くんのことが好きだと、再確認した。

 水族館は、ずいぶんと久しぶりだった。小さい頃は、暗いしなんだか不気味で、あまり好きではなかった。今は別になんとも思っていない。蔵内くんが好きなら、わたしも好きになりたい。
「この辺、初めて?」
「うん。まだあんまり家と大学の近くしか詳しくない」
「大学はどう?」
「たのしいよ。蔵内くんは?」
「俺も楽しい」
 生産性のない話題。たったそれだけなのに緊張する。男の子とこうして二人で並んで歩くこと自体、めずらしいことなのに相手が蔵内くんだなんて、どうしていいかわからなくなりそうだ。


◇◇◇


「蔵内くんは、どうして水族館好きなの?」
「動物園と違って、ひとつの水槽に、いろんな種類の魚がいるから、かな」
「これみたいに?」
「うん。それぞれ食べ物も習性も違うのに、この水槽の中で共存できていて生態系の多様性が……面白いと思うけど、それは大人になってから感じたことで、……単純に、魚が泳ぐ姿が、好きだったからかな」
「魚が泳ぐ姿」
「ずっと見てられる」
「……そうだね」
さんは、水族館、楽しい?」
「うん。好きになりそう」
「よかった」
「蔵内くん」
「なに?」
「…………あ、の魚、なんて名前だっけ?」
「どれ? ミノカサゴかな」
「それかも。わかんないけど……」
「……さん」
「はい」
「三月の最後に会った日のこと、覚えてる?」
「うん」
「……あの日のこと、ずっと申し訳なかったって」
「え?」
「あんなこと言って、迷惑じゃなかった?」
「迷惑なんかじゃないよ! すごく、嬉しかったし。本当に」
「なら、よかった」
「……」
「俺があんなこと言ったから、気を使わせちゃったかもしれないって」
「そんなことないよ!」
「……」
「ああ言ってもらう前から、ずっと、わたしも蔵内くんにまた会いたいって、思ってた」
「……うん」
「ずっと、好きだったから」


◇◇◇


 なんとも言えない距離を空けたまま水族館を出た。けれど、どうすることもできない。さっきの話は、団体客がやってきてさえぎられてしまった。蔵内くんに、最後の言葉は届かなかったのだろうか。それならその方がいいとも思ってしまうけど、卒業後に後悔していたこともあって、結局どうしていいのかわからない。
 会えるのも、今日で最後になるかもしれない。でも十分だ。今日こうして一緒に過ごせて、それだけでも十分しあわせなことだ。
「……えっと」
「……」
「……さっき、話途中で、その」
「あ、うん」
「座ろうか」
 近くのベンチに二人で腰かける。周りを歩いて移動している人たちを眺めながら、ここだけ別空間のような気がしてしまう。気が重い。ボーダーを続けると決めて、それに関わる研究をしたいと言っていたこの人と、わたしがどうにかなれるなんて思ってもいなかったはずなのに、なんでこんなに悲しいのだろう。わたしが好きだと言わなかったら、また、こうしてデートのようなことにも付き合ってくれたのだろうかなんて愚かなことも考えてしまう。
「嬉しかったよ。ああ言ってくれて」
「……うん」
「俺の今一番興味のあることは、ボーダーが扱ってる技術で、きっとそれはしばらく変わることはないと思う」
「……わかってる、つもりだよ」
「世間の、と言っても何が一般的なのかは俺にもよくわからないけど、いわゆる普通の恋人みたいには、なれる自信もあんまりないんだ」
 慎重に言葉を選んでくれているのがわかる。なんであのタイミングであんなことを言ってしまったのか。今すぐ逃げ出してしまいたい。
「それでも、もしも、さんがいいって言ってくれるなら、甘えさせてもらいたいと、思う……」
 頭の回転は、悪くない方だと思う。言っていることもなんとなく理解できているのに、わからない。
 いつも真っすぐ伸びた背筋が、今は頼りなく見えるのは気のせいだろうか。いつも上手に話す彼が、自信がないと口にするなんて、めずらしいことだと思う。わたしも自信なんてない。でも、絶対にこちらからは手放したくない人。
「……もう会えなくなるのは、嫌なんだ。でも、特別な関係になって、さんを縛りたくない」
「わたしとは友達のままでいたい、ってこと?」
「それも違うんだ! えっと、どう言ったらいいんだろう……」
「……それって」
「離れた土地で生活するさんが困った時に、一番に駆けつけることもできないのに彼氏になりたいとは、言えないから、その……」
「蔵内くん、わたしのこと……、わたしに、友達以上の気持ちって、持ってたり……」
「それはもちろん。……好きだから」
「本当に?」
「本当」
「うそ、じゃない、よね?」
「嘘つけるほど、余裕なんてないよ。ずっと」
 目が合って、恥ずかしくなってそらした。さっき館内で、蔵内くんは返事をしてくれていたのかもしれない。わたしが聞き逃してしまったのか。そう思ったら、話のつじつまも合うような気がした。両想いだけど、ボーダーのこともあるし、距離のこともあるし、いろいろと、すんなりお付き合いを始められるわけではない。
 両想い。そう思い浮かべただけで嬉しくなる。蔵内くんが、わたしのことを好き。どうしてなんて考えそうになるけど、今はその事実だけで満足してしまう。
 ひどく安心して、どっと疲れてしまった。お昼をまわっているし、お腹も空いてきた。
「蔵内くんが、わたしのことを負担に思わないでいてくれるなら、わたしは、蔵内くんとお付き合いを、したいです……」
「俺もさんの負担になりたくはない。その時は、話し合おう」
 先に立ち上がった蔵内くんが手を差し出してくれた。自分の手を重ねると、ぎゅっと一度握りしめたあとに、やさしく引いて立ち上がるのを手伝ってくれた。放すのが惜しくてぎゅっと力を込めたら、そのあとも手を握っていてくれた。?

 ショッピングモールにあるレストランでお昼ご飯を食べた。気持ちが通じた嬉しさもあったけど、どう振舞えばいいかわからなくて緊張した。蔵内くんはやっぱり落ち着いていて、大学生になってからの知らない話をたくさんした。
 毎日会えた頃を懐かしく思う。知らない蔵内くんが、これからどんどん増えていくのだろうか。でもその分、恋人同士でしか知れない蔵内くんも知れる。そう思えば少しはいいような気もした。
「高いところ、平気?」
「うん。大丈夫だよ」
 苦手ではないけど、展望台までのエレベーターはちょっとだけドキドキした。気圧で耳が変になりそう。さっきまでとは違う緊張が走る。ぎゅっとこぶしを作っていたら、上から蔵内くんが握ってくれて、びっくりして顔を上げた。
「ごめん、大丈夫って言ったくせに……」
「気にしないよそんなこと」
 ドキドキが止まらない。意識が全部蔵内くんに集中してしまう。本当に単純だ。蔵内くんの彼女がこんな女でいいのだろうか。
 彼女、そう思って恥ずかしすぎて一気に顔が熱くなるのを感じた。もう、しばらく、蔵内くんの顔を見れない。


「三門はどっちだろう」
「こっちかな」
 手を引かれて、一緒に歩く。エレベーターで繋がれた手はそのままで、とてもむずむずしてしまう。こんなこと、いいのだろうか。
 わたしも蔵内くんのようにもっと堂々としたい。気なんて遣っていないと、伝わって欲しい。そう思うのに、うまくできない。
「天気が良くて、遠くまで見えそう」
「うん。ずっと向こう側までよく見える」
 景色を見るために離れそうになった手を引き留めてしまう。あ、と思って顔を上げたら蔵内くんと目が合ってしまった。
「えっと」
「……ごめん」
「いや……恥ずかしいな」
 目を逸らされた。咄嗟に出た言葉がごめんはよくなかっただろうか。でもなんて言えばよかったかなんて、わたしにはわからない。
 手が離れてもいいように力を抜いたのに、手は離れない。蔵内くんが握ってくれているのがわかる。それだけのことでもやっぱりドキドキしてしまうのだけど、また、蔵内くんからもらってばかり。
「蔵内くん」
「ん?」
「ありがとう」
 手をぎゅっと握りしめて言った。ごめんと言うよりありがとうと言えばよかったかなと思ったのもあるし、今日の今までのいろんなことにも、ありがとうと言いたかった。
「まいったな……」
 外は雲一つない晴天で、遠くまで景色が見渡せた。せっかくの展望台だけど、目の前の蔵内くんにしか焦点が合わなくなってしまったらしい。こんな、ああ、ずるい。
「……」
「……照れて、る?」
「うん」
「蔵内くんも、恥ずかしいとか、思うんだね」
「それくらい、思うよ」
 かわいい。初めて蔵内くんにそう思った。そしてなんだか初めて、付き合えたんだという実感がわいた。


◇◇◇


 あっという間に、蔵内くんが帰る時間になった。忙しい蔵内くんがこうして時間を作ってくれただけですごく貴重なことだった。でも、今はもうただの友人ではない。次の予定を、期待してしまう。
 蔵内くんを見送るためにホームに出る。次の電車は三分後。あっという間。もっと、一緒にいたかった。手も繋ぎたかったのだけど、蔵内くんの手にはお土産がぶら下がっていてそれも叶わない。
「電車、もうすぐだね」
「……さびしいな」
「わたしも」
「またすぐ、会えるといいんだけど」
「うん。連絡、するね」
 ホームに電車が来るとアナウンスが流れる。もう、残り時間が迫っている。見上げると目が合った。名残惜しいと伝わって欲しい。
「そんな顔、しないで」
 やさしく笑ったあと、顔が近づいた気がして目を閉じた。背中にとん、とやさしく触れられたら、電車の音がした。ホームに電車が現れて、ゆっくり離れる。
「今日はありがとう」
「こちら、こそ」
「家に着いたら連絡して」
「うん。蔵内くんも」
「うん。それじゃまた」
 電車に乗る蔵内くんに手を振って、一歩、電車から下がる。扉は思ったよりも長い間開いているように感じた。蔵内くんも、座席の方に移動せず扉の前に立っていてくれる。
さん」
 蔵内くんが話しかけてくれたのに、扉が閉まってしまう。さっきはなかなか閉まらなくてもどかしかったのに、今は閉まった扉が恨めしい。力いっぱい手を振って、三門に帰っていく蔵内くんを見送った。
 立ち尽くしていれば電車を降りた人もみんなホームからいなくなってしまった。空っぽのベンチに腰掛けて一息つく。なんだか、どっと疲れてしまった。
 電車が来る直前、ぎゅっとされたことを思い出す。今日一日ずっとドキドキしていたけれど、あの時は心臓が止まるかと思った。好きだなあ。思い出して、頭の中がそれでいっぱいになる。
 東京に来ても、蔵内くんより素敵だと思う人はいなかった。いっぱい人がいて、三門にないものがたくさんあって、満たされているはずなのに。東京だからといって欲しいものが全てが揃ってるわけではないと、痛感させられた。
 たった一人に出会えたこと、想いが通じ合えたこと、夢みたいだ。今思い返しても嘘のような気がしてくる。それでも蔵内くんの表情ひとつひとつ思い出しては、わたしのことを大事に想ってくれているような気がしてしまって、恥ずかしくなる。わたしの気持ちも、全部伝わっていたらいい。まだまだ上手くは口ににできないけど、これからは言えるようになりたい。
 蔵内くんの彼女に相応しい女になりたい。次に会う時は、今日着ることの出来なかったワンピースが似合う女になりたい。まだまだ知らないこの街で、強い女になりたいと決意した。
 ベンチから立ち上がり、自分のアパートへ帰れる電車のホームへ向かう。知らない路線は避けるようにしてたけど、迷ったって、死ぬわけじゃない。この街での生活が、自分にとって良い選択だったと思えるようになって、胸を張って蔵内くんの彼女として生きられるように、絶対なりたい。
 蔵内くんのことを好きになってよかった。こんな風に変わろうと思えたのも、頑張ろうと思えるのも、全部全部蔵内くんのおかげだ。まだ当分片想いの気分が抜けないけれど、時々付き合っている事実を思い浮かべて、恥ずかしい。今日の蔵内くんも、かっこよかったなあなんて、思い出して、手のぬくもりとか、背中に触れた時の体温とか、色んなものが芋づる式に思い出されてしまう。
 早く帰って、ゆっくり噛み締めたい。さっきまで疲れていた足取りも軽くなる。慣れない電車も、もう怖くない。わたしはこの街で、強くなるんだ。