神田くんとは友達でもなんでもない。かわいい後輩。そう友達に言っていたけど、うそだと思う。本当のことは、自分でもまだわからない。
 バレンタインデーの特設会場を見ながら、神田くんに何かあげたいなと思った。下心は、あるかもしれない。でも手作りするひまもないし、熱心に選んであげる余裕もない。適当に寄っただけなのだ。すぐに決めて会計を済ませないと。そう思って、手ごろな値段の、なるべくシンプルな、でも安っぽくないものを選んでレジに持って行った。

 神田くんとは委員会が同じだった。ボーダーの用事があるから早く帰ってもいいかと先生に確認していて、ああ、この子はボーダーなんだって、思ったのが第一印象。うちの学校にボーダーはあまり多くはなくて、第一高校の方がたくさんいるとは知っていたから、珍しいなって思った。ただそれだけ。でも顔と名前、クラスを覚えるには十分だった。
 初めてちゃんと話をしたのは自動販売機の下に十円を落とした時だ。ぴったりだけ握ってやってきたので諦められず、下をのぞいたけど見つかるわけもなかった。顔を上げた時に、たまたま通りかかった神田くんと目が合った。「神田くん」と呼びかけたらすごくびっくりされて、「十円貸して」と言ったら今度は笑われてしまったのをよく覚えている。変な先輩だと思うのに、すごくやさしい顔をしていたと思う。これは思い出補正かもしれない。
 それからは挨拶をするような仲になって、ときどき話をしたりして、なんだかよくわからない関係になった。委員会が一緒の後輩、とカテゴライズしてみるけど、委員会の時に話した記憶なんてないし、あっているようであっていないとずっと思っていた。

 二月が来て、三年生は自由登校となった。私立の受験はもうすでに始まっているところもあったし、国公立だってあっという間に受験日だ。気を引き締めなければ。そう思っていたのに、買っておいたチョコレートが、心をざわざわさせた。
 なんで用意したのだろう。自由登校になるとはわかっていたのに、当日会えないと思ってもいなかった。神田くんの家なんてもちろん知らないし、連絡先も知らない。学校に行く以外に、会える方法を知らなかった。ボーダーの用事で学校にいるかさえもわからなかった。わたしは神田くんのことを、本当になにも知らなかった。
 受験勉強に身が入らなくなるなんてことはなかったけど、ふとした時に、もう会えないのは嫌だなあと思った。思っても、何もできないと言い聞かせていた。勉強していれば忘れられるから、一生懸命勉強した。でもやっぱり、十四日の朝、どうしても諦めきれなくて、学校へ行くことにした。先生へ質問をしようとノートを開く。今更こんなことを聞きに行くなんて呆れられてしまうだろうなと思いながら、なんでもいいから言い訳が欲しかった。
 変な時間に校門をくぐるのは、不思議な気持ちがした。この制服も、あと何回着れるだろうか。さびしくなるから数えるのはやめた。昇降口を抜けて、教室の前の廊下を進む。まずは職員室へ行くべきか、二年の教室を目指すべきか。考えていたら、教室の向こうに見える校舎に、人影をみつけた。
 そんな都合のいいことってあるのだろうか。そう考えながらも急ぎ足で進む。神田くんであって欲しい。見間違えていないと思うけど、あまり自信はなかった。
 人気のない校舎は空気がひんやりとしていた。三年の教室の前だって同じはずなのに、もっとだ。緊張で忍び足になってしまう。ある程度近づいたところで、ちゃんと神田くんだったと確認ができて、嬉しくなった。
 全然気が付かれていないことがおもしろくなって緊張が抜けていく。呼び止めて、チョコレートをあげて、学校以外でも、おしゃべりできる関係になりたい。今望むのはそれだけ。バレンタインにわざわざチョコレートをあげたいくらい、かわいい後輩なのだから。

***

 三年生の教室はがらんとしている。受験で自由登校が始まったのは二月に入ってから。もう会えるかもわからないと気が付いたのはその時だ。何かを期待していた自分が恥ずかしいなと、今日のイベントを思い浮かべて苦笑しまう。
 先輩と仲良くなったきっかけがなんだったのか、今ではもう思い出せない。委員会が同じだったような気もするし、自動販売機の前で十円貸してほしいと頼まれたのが最初のような気もする。学年も違って接点なんてほとんどあってないようなものだったのに、なんでか見つけたらお互い声をかけるようになって、友達と呼ぶにはおかしいのだけど、あまり話したこともないクラスメイトよりはずっと近い距離にいた。
 バレンタインデーには特になんの思い入れも持っていない。もらえたら嬉しいけど別にそれがなんだって感じだった。おこぼれの女子同士の友チョコに巻き込まれるのだって正直めんどうくさいし、告白だって普段は男からするのが普通みたいな顔しておいて、バレンタインは女子からなのもなんか変だし、断るにもチョコレートを渡されると断りにくいし、あれは何とかならないのだろうか。
 いままでそんな風に思っていたのに、先輩はきっとくれるんだろうなって、勝手に期待していた自分がいた。名前をつけられない不思議な関係だけど、だからこそ、後腐れも面倒くささも何もなく、このイベントを楽しめると思っていた。
 がらんとした教室を、反対校舎から見つめる。こんなことなら、最後に会った日にもっと話をしておくんだった。卒業式に話しかけにいけるような関係でもない。あっけなくなくなってしまう関係でしかなかったことが、すこしだけ、さびしい。
「神田くん」
「……え、なんで?」
 呼ばれて窓から視線を外す。特別教室が並ぶこちらの校舎に来る人は少ない。次の授業で行くはずの物理室も上の階で、ここにある地学室では授業がないらしく誰もいなかった。
「三年は自由登校なんだから来ることもあるよ」
「いや、そうなんすけど……」
「今日はバレンタインだしね」
「理由、変ですよ」
「チョコレート欲しいでしょ?」
 先輩は相変わらずにやにやしていて、俺のことをからかうためだけに用意したのかともとれる。でも受験のこの時期に、こんなことのためだけに来ないだろう。
「私立の試験終わったから、担任に顔出しておこうと思って」
「そうっすか」
 声をかけられた時のままだった距離を詰める。チョコレートを受け取るためにあたり前の行動なのに、先輩はそわそわしだす。休み時間、もう少しで終わるんだけどな。
「先輩」
「……なに?」
「お返ししたいんで、連絡先教えてください」
 手を出しながらお願いしてみる。先輩のことを好きだと思ったことはまだ一度もないけど、好きになりそうな気がする。近くに立つと、小さい。目を合わせてくれないのがかわいいなとも思う。先輩だって、少しは俺のこといいと思ってくれていたんじゃないかと、勝手に自惚れてみる。
「チャイム、鳴ってる」
「昼休み、教室行くんで待っててください」
「……うん。わかった」
 チョコレートも受け取れないまま、急いで階段をのぼる。すごく心臓がうるさくて、バレンタインなんてしょうもないと思っていた自分は、もういなかった。