「あ、忍田さん! やっといた」
 探していた人を見つけて呼びかければ、いつも通りやさしい顔で振り返る。この表情を独り占めできたらどんなにいいだろうと思うけど、そんなことは叶うはずがない。
「どうした?」
「これ渡したくて」
 提出予定の書類を差し出せば、ああと言いながら受け取ってくれる。これで終わりも名残惜しくて手を離すのを数秒遅らせれば、またいつもみたいにやさしい顔で「どうした?」と聞いてくれる。
「何でもないです」
「手、どうしたんだ?」
 手のひらを見せて何でもないアピールをしてしまったのだが、ハッとして慌てて後ろへ隠す。
「何でもないです」
 もう一度同じ台詞を口にするけど、忍田さんはそんなのお構いなしに手を伸ばしてわたしの右手首を捕まえる。
「……最近風邪流行ってるじゃないですか。手洗いのしすぎです」
「そうか」
 ボーダー内でウイルス性の風邪が流行っていた。トリオン体だと元気な分、体調の変化に気付きにくく悪化させてしまう隊員が多く、本部内を出入りする全員、こまめな手洗いを徹底するようにと医務室からの通達があったのだ。
 手を洗う頻度が上がったせいで手荒れをしている人は少なくない。わたしもその一人。珍しくも何でもないはずだ。
 忍田さんはわたしの手首を捕まえたまま、反対の手で内ポケットからチューブを取り出す。器用に片手で蓋を開き、わたしの手に付けた。
「……いい匂い」
「もらったんだが、あんまり使わなくてな」
 明らかに女物のハンドクリーム。使ってないと言いながら潰れている容器を見るに、半分は使っているのではないだろうか。
 手荒れを心配してくれたのも手を掴まれたのも、内心ウキウキだったのに、スーッと気持ちが沈んでいく。あまり使わないのに大事に持っているのか。そうか。
「……」
「瑠花が新しいのを小南たちにもらったからって、お古を押し付けられたんだ」
「自分では使ってないんですか?」
「まあ、たまに……」
 恥ずかしそうに言う忍田さんを見ながらハンドクリームの匂いを嗅ぐ。甘い。似合わないけどかわいい。沈んだ気持ちが戻ってくる。アロマって癒し効果があるから、なんて言い訳を考えながら、今度同じ匂いのものを買ってしまいそうだと思った。