弓場先輩と恋人同士になって、それなりの月日が流れた。お互いもう高校生ではなくなったくらいの時が過ぎ去ったと言うのに、わたしたちはというと、まだ手を繋ぐくらいのところで止まっている。
この関係に特に不満があるわけではない。ずっとそういう雰囲気できてしまったから、今更だし。甘い少女漫画みたいなイチャイチャみたいなものを弓場先輩とする。想像してもむず痒い。けれどもしそうなったら、嬉しいのだろうか。まだ知らないけど、いつかそういう雰囲気になったりするのだろうか。そもそも先輩にそんな気があるのだろうかと悩んでしまう。
休日、先輩の部屋に一緒にいるけど特に何も起きる様子はなく、いつも通りだ。ただ隣に座って、お互い好きなことを考えてる。小難しそうな戦術についての本に没頭している先輩は、わたしの思考に気付くこともないだろう。
今、先輩の頬にキスをしてみたら、どんな顔をするだろうか。真剣な横顔を眺めて考えてみる。考えてみただけなのに、恥ずかしくて無理だとわかった。結局わたしにはまだ無理だ。キスもしてみたいと思うけど、そんなことをしてどうするんだと冷めた目で見る自分もいる。そんなことしなくても、お互いが想い合っていることをちゃんとわかってるし、手を握れば伝わることだとも思う。でも、まだ何もないわたしたちは変なのかなと思うこともあるし、先輩に無理をさせているのだとしたら、嫌だ。先輩がしたいと思っているなら、応えたい。だって好きだから。そういったことに興味がないわけでもない。興味はある。でも言い出すほどじゃない。自分でもこの辺の感情はよくわからない。だから今まで何も言わなかった。
「……おい。どうかしたか?」
「別に!」
急に近づかれてドキドキしてしまう。変なことを考えていたのがばれてしまう。こうして不意に近づかれることにまだ慣れてなくて、中学生レベル止まりと友達に言われても、何も言い返せない。キスするとかしないとか、そんなレベルではない。きっと。
「何か、悩みか」
「だ、いじょうぶ」
「具合よくねえとか」
「元気だよ!」
さっきまで先輩が読んでいた本はテーブルに置かれていた。もしかして、何か話しかけてくれていたのに気が付かなかったのか。それで心配をしてくれたのなら、申し訳ない。でも今なら言えるかなって気もしてきて、頭の中がぐるぐるした。
「……先輩は、わたしとキスしたいって思ってますか?」
恥ずかしくて顔が見れないけど、何の返事もないことに不安になって顔を上げたら、びっくりした顔で停止していた。それはそうだ。わたしたちは今までとても健全なお付き合いをしてきたし、そういう素振りも雰囲気も、今までどちらも見せたことがなかった。だからこそ、悩んでしまったのだけれど。
「ごめんなさい……すこし、気になった、だけ、だから、気にしないでください」
「……まだ、挨拶、してないから」
小さい声で、先輩は言った。普段はっきり聞き取りやすい声で話す先輩にしては珍しいことだった。
「あいさつ」
「ご両親に、まだ会ってない」
わたしはもう、先輩の家族には会っていた。だってこうして家に来たらみんないたし、時には夕食を食べていってと言ってもらったり、とてもよくしてもらっている。先輩も家族を大事にしてるしわたしもこの家に来ることに抵抗もなくなった。だから、うちへ先輩を招くことはあまりなかった。
「お母さんは、会ったでしょ?」
「そうだな。けどご両親二人に挨拶はしねえと、けじめとして」
「……お父さんは、大丈夫だよ」
「お父さんの方が、大丈夫じゃないだろ普通」
先輩の言い分もわかる。でも、お父さんに紹介する時って、結婚する時だと思ってた。普通紹介しないし、むしろ彼氏ができた報告だって、いちいちするものでもないと思う。なんとなくわかってる、みたいな感じだと思うし、そんな状況で、先輩を紹介なんて無理だ。お父さんに何か言われたくない。そんなことでわたしの今の幸せな時を邪魔されたくない。先輩は真面目だから、お父さんに何か言われたら悩んじゃうだろうし、お父さんも変なこと言う人ではないと思うけど、実際のところはわからないから無理。
「うちのお父さんに挨拶したら、わたしたちはキスできるんですか? それはなんか、嫌だなあ」
「そういうことじゃない」
「でもそうなってます。わたしは、先輩が、拓磨さんがどう思っているかを聞きたかったんです」
向き合って、真っすぐ視線を向けると一瞬たじろいだけど、すぐに真っすぐ見返してくれた。
「したくない、わけねえだろ」
「したいって思ってくれてるってことですか?」
「……そうだ」
ドキドキしていたけど、目を逸らしたらダメな気がして顔に力を込めた。じんわり、熱がこもる。
「お前はどうなんだ」
「わたしですか?」
「そうだ」
「わたしは、拓磨さんがしたいなら、したいです……」
恥ずかしさの限界だった。火が出そうに熱い。先輩も顔が真っ赤だ。こんな風に見つめ合って、お互いの気持ちもわかってて、もしかしなくても、今、そういう風になるのではないだろうか。
固まること数秒。沈黙を破ったのは拓磨さんだった。大きなため息とともに目を逸らした。わたしも解放されたような気持ちになって、脱力した。
「……まだ、すぐは無理だな」
「ですね」
一度そういう雰囲気をまとってしまったら、もう昨日までの自分には戻れない。またこういう機会があったら、きっとキスをする。想像しただけで心臓が痛い。けれど期待している自分もいて、恥ずかしい。
「お父さんに挨拶は、しなくても、いいですか?」
「それはまた、タイミングがあるときに」
「……拓磨さんがしたいことは、なんでも教えておいてくださいね」
「いや、それは」
「我慢して欲しくないんです」
また大きいため息をつかれてしまった。呆れられてしまっただろうか。でも、男の人の方が我慢することが多いとは聞くし、さっきのことだって、ずっとしたいと思っていてくれていたのなら、申し訳なかった。
拓磨さんの手を握って、もたれかかる。恥ずかしいから顔は見れないけど、ちょっとずつ、こうして触れる時間が長くなればいい。自分たちのペースで、これからも付き合っていきたい。