何もしないでいても、平等に時は進み、失った時間は戻ってこない。無駄な時間を過ごすのは、もったいないと思う反面、お金のかからない贅沢のような気もして、結局は、何もせずだらだらと過ごす自分を肯定してしまう。
お腹が空いた。美味しいごはんが食べたい。買いに行くのも面倒くさいけど、材料も何もないし作るのも面倒くさい。まだ日が高い時間であれば、買い物に行ってもよかったけれど、この時間では、少し遠いスーパーまで行かないと何も売っていなそうだ。あ、冷凍庫にアイスはあるんだった。もうごはんなんて食べなくても、アイスを食べて寝てしまえば明日まではもつだろうか。
ゴロゴロと起き上がる気力もない。テレビは付いてるけど面白くなくて見ていない。そういえば、今夜から新しく始まるドラマ、見たいやつだっけ。買い物へ行くのはやっぱり無理かも。
いろんなことを諦めて、目を閉じる。このまま眠りに落ちても咎める人はいない。その代わり、自動で食事が出てこない。一人暮らしのいいところと悪いところ、正直どっちもどっち。
意識を手放そうとしていた時、インターホンが鳴った。何か届く物があったっけ。心当たりがない。立ち上がるのも面倒くさいのに、今なのか。でも何かの勧誘だとしたら、玄関まで行きたくない。
出るか出ないか悩んでいればもう一度インターホンが鳴る。荷物だったら再配達面倒だし、仕方ない立ち上がろうと重い身体を起こした。
「おーい」
控えめに呼びかける声とドアを直接叩く音。これは荷物じゃない。ため息をひとつこぼしてから、髪の毛を手ぐしでとかす。さっきまで重たかった身体が嘘みたいに軽い。ほんと、よくできてる。
玄関のカギを回してから、扉を開ける。目の前には期待通りの男が立っていて、手にはスーパーの袋を下げている。
「また袋買ったの?」
「エコバックなんて持ち歩いてない」
「お金いっぱい稼いでるもんね」
「まあ、そうかもな」
こういう時、否定しないからわたしも遠慮せずに買ってきてくれたものを受け取ってしまう。晩御飯の材料とぼんち揚げ。ごはん、作ってくれるのかな。
「寝てた?」
「うーん、ゴロゴロしてた」
「連絡したんだけど」
ポケットにスマホがないことに気が付いて、どこにやったっけと考えていると、まあいいけど、と腕まくりをする。どうやら晩御飯は作ってくれるらしい。
「作ってくれるの?」
「うん。カレーだけど」
「やったー!」
こうして時々うちへ来ては一緒にご飯を食べる。最初はわたしがごはんを作りすぎたから食べて欲しいとお願いしていたのに、いつの間にか、どちらかが作るようになっていた。慣れた手つきで狭いアパートの台所に立つ迅は、なんだか不格好で面白い。背中に好きだと念じてから、わたしは机周りの片付けをすることにした。
高校時代の同級生だった迅とももうそこそこ長い付き合いになる。他のボーダーの人はみんな進学したと言うのに、迅は大学へは行かず、玉狛にある支部に住み込みで働いているらしい。別に迅の人生だし、何かしてあげられるわけでもないから、とやかく言うつもりもなかった。わたしはただの一般市民だけど、こうして仲良くしていられるのは、この距離感のおかげだと思う。踏み込んだら壊れてしまう、そんな距離を慎重に保ちながら、ずっと過ごしてきた。
高校時代からずっと、迅のことは好きだ。けどそれを知られたら離れていってしまいそうで、怖かった。もしも奇跡的に付き合えたとしても、ふらっといなくなってしまいそうで、怖くて付き合いたいと思えなかった。
トントンと野菜を切る音が部屋に響いてくる。どうしようもなく好きで、この関係を手放したくない。手放さないために、気持ちを打ち明けるべきな気もするけれど、もう少し、このまま居心地のいい関係でいたい。
「スマホあった。連絡いっぱい来てた」
「だろうね」
大学の連絡が来ていて、自分は関係ない話でもりあがっているだけなのに、通知が来るのはうるさくて、鳴らないようにしていたらしい。迅からのメッセージも、着信も一時間くらい前に来ていたのに無視だ。
「もしわたしが本当は忙しく留守だったらどうしてたの?」
「どうせひまでしょ」
「そうだけど」
台所からは玉ねぎを炒める音がする。手際がいい。よくわかんないけど、迅が作るカレーはわたしのとは何かが違って特別美味しい。同じルーを使っているはずなのに。
「デートする相手くらいいないの?」
「カレー作りながらお母さんみたいなこと言わないで」
「お母さんて、あ、ご飯炊いてある?」
「……ないです」
迅の口からデートなんて単語が出てせっかくドキドキしていたのに、空の炊飯器によって現実に引き戻される。
「ちょっとどいて」
「ん」
狭いキッチンに二人並んで立つのはなんだかむずがゆい。でも順番待ってたらカレーにたどり着けなくなっちゃうし。お釜にお米と水を入れて、軽く洗う。
「なあ」
「なあに?」
「彼氏、まだできないの?」
「いたらこんな男家に入れたりしない」
「そりゃよかった」
何がよかったんだろう。ごはんを食べる場所があるから? わたしと過ごせるから? ぐるぐる考えていたら、お米をこぼした。
「わ、もったいない」
「迅が変なこというからでしょ」
大学生になって、出会いはたくさんあった。男女関係なく友達も増えたし、かっこいい先輩がいるサークルに入ろうか悩んだりもした。でもできなかった。迅を見放してまで、大学生活を謳歌することを、自分自身望んでいなかったから。
「今からもっと変なこと言っていい?」
「えー、ならセットするから待って」
迅の声色は落ち着いていて、やさしくて、どうしていいかわからなくなる。顔が見れない。迅の手元の鍋は、ジュージュー音を立てている。もう水いれるかな。
水量を目盛りに合わせて、炊飯器にセットする。炊飯ボタンを押したら、迅に向き合って、何か言いにくいことを聞かなければならない。内容が想像つかないだけに、どう心の準備をしたらいいのか、わからない。
「どうかした?」
「いや、なんでも」
鍋にもう水を足したのか、蓋をしてわたしの横に立った迅と目が合う。真剣な顔に、動揺してしまう。
「……早炊きってどうなのかな」
「ああ。どっちでもいいんじゃない。腹減ってるなら、早い方がいいかもだけど」
お腹は空いていたはずなのに、今はもう全然空腹を感じない。投げやりな気持ちになって、いつも通り炊飯することにして、スイッチを入れた。ジーと音がして、画面は残り時間の表示に切り替わる。
気が抜けていた。ごはんは約一時間後か。炊飯器のカウントを見ると、そう確約された気持ちになる。そんなことを考えて、ぼーっとしていた一瞬。くちびるを奪われた。
目を閉じるひまもなく、すぐに離れたけれど、どういうことなのか、理解が追い付かない。今、なんで、そういうタイミングではないってこと、それくらいはわかる。
「嫌がられないと、調子乗るよ?」
「……」
調子に乗る、具体的には? 期待を込めて聞き返してしまいたくなる。わたしだって、すごく調子に乗ってしまう気がする。だって今までこうして家に来ても、手が触れることすらなくって、精神的にも物理的にも、適度な距離を、ずっとずっと保っていたはずなのに。
手を握られて、じっと、見つめられる。顔をあげたくないのは、またキスしてくれないかなと、期待で胸がいっぱいだから。こんなにも、そんな気持ちが湧き出てくるなんて、想像してなかった。
「なべ!」
バクバク鳴った心臓を、少しでも落ち着けようと思った時、鍋の噴きこぼれる音が聞こえた。火、弱くしてなかったのか。
「わるい」
「だい、じょうぶ」
握られた手は放してしまった。火を止めて、蓋を開ける。まだルーは入れていないけど、肉と野菜の煮えたいい匂いがする。
「このまま置いておこうか。ご飯まだ炊けないし」
「そうしよう」
ぎこちない空気をまといながら、キッチンから部屋へ一緒に進む。こんな状況どうしたらいいと言うのだ。
「好きだよ」
二人で腰を下ろして、何かテレビでもと思いチャンネルを回そうとしたら、唐突に言われた。
「……わたしも」
声がうまく出なくて、消えそうだった。でもしっかり聞き取ってくれたのか、腕をのばされぎゅっと抱き留められた。
「……すき」
「おれも好き」
甘ったるい状況に、ついていけない。何が迅を突き動かしたのか、全然想像もつかないけれど、好きな人に好きだと囁かれて、浮かれない人などいないだろう。顔が、にやけてしまう。
「もう一回、ちゅーしていい?」
「うん」
身体をゆっくり離されて、それだけで死にそうだ。こんな風に改まって、さっきとは違う。迅も同じだったらいい。そうじゃなきゃ困る。ご飯を早炊きにしなくてよかったと、心底思いながら二度目のくちづけをした。