夏が終わると、本格的に受験生の空気がただよってきた。嫌だと逃げ回っても年が明ければ嫌でも試験を受けなくてはいけない。三門市立大学なら十分合格圏ではあったから、そこでいいと諦めれば勉強をせずとも済んだかもしれないが、どうしても都心に出たかった。単純な一人暮らしや都会への憧れももちろんだが、危険と隣り合わせのこの街から、離れたい気持ちが強かった。三門市のことが嫌いというわけではないが、もっと便利で安全な街で暮らしてみたいと言うのは、当たり前のことだと思う。
 学校の友達も、この街を出ると言う人は多かった。大学進学を機に、家族ごと引っ越すなんて子もいた。うちの親はいい大学へ受かるなら都会で一人暮らしでもなんでも好きにしていいと言う。ただ、高齢の祖父母もいて、住む家も働く場所もあるのだから、わざわざ家族で三門市を出ようとは考えていないと言われた。
 受験生、という言葉の重圧は日に日に増していく気がして、憂鬱だった。呪いの言葉のようにも思う。春先と変わらないクラスメイトと授業を受けているはずなのに、なんでか一人、取り残された気持ちだった。
 生徒会長だった蔵内くんと仲良くなったのは、もう蔵内くんが生徒会長ではなくなってからだった。生徒会長の任期を終えたあとも、みんなは蔵内くんのことを会長と呼んだ。会長時代に親しかった訳でもないわたしはなんとなく気恥ずかしくて、会長と呼べないでいた。
 最後の席替え、と言われた席替えで、隣の席になった。最初はちょっとだけ嫌だった。話をしたこともなかったし、真面目で頭のいい人が近くにいると少なからず気が重たいと思っていた。けれど、実際に過ごしていると、だんだんと居心地がよくなる。物腰はやわらかいし、表情も想像したよりずっと豊かだ。生徒会長ではなくなった彼を、未だに会長と慕っている人が多いことも納得がいった。
 必要最低限の日常会話しかしていないけど、隣の席にいることで、ずいぶんと彼への印象は変わっていった。ボーダー隊員だと言うことも、なんとなく知っていたはずなのに、改めて、ボーダーでの活動と、学校生活を両立させていてすごいと感じた。勉強だけで精一杯なわたしとは、頭の作りが元から違っていると思う。
 推薦の試験が始まる頃にはほとんどの授業が自習になた。カーディガンはいつから着ようかなんて考え始めるような季節だった気がする。昼間はあたたかくて、体育の後はみんなワイシャツ姿だったりして、けど寒い日もある。そんな季節に、わたしは蔵内くんと少し親密になった。
 そうは言っても、顔見知りから友人くらいになった程度で、それだけだった。自習中、わからない問題に飽き始めていた時、声をかけてくれて、そこからわからない問題をよく聞くようになった。蔵内くんはどんな時もやさしく丁寧に教えてくれて、わからない問題なんてない様子だった。すぐにわからなくても、一緒に考えてくれて、そのあと答えを導き出すのはいつだって蔵内くんの方だった。いつまで経っても成長のないわたしに呆れてしまうのではないかと思って、学校以外でも一生懸命勉強をした。
 冬が来る頃には、蔵内くんのおかげでわたしの成績はそこそこだった。第一志望に合格確実とは言えないけれど、この調子なら大丈夫だろうと、担任にもそう言ってもらえた。嬉しくて、蔵内くんにも報告をすれば、やさしく笑ってくれた。「嬉しいけど、さびしくなるね」なんて言われては、もう、好きな気持ちで胸がいっぱいになってしまった。
 蔵内くんも、都心に進学をするのだと思っていた。都会へ行って、何かすごいことを成し遂げる才能を持ち合わせていると、それは今でも思う。けど蔵内くんはボーダーを続けて、その関連分野の研究のために、三門市立大へ行くと言った。そして推薦でもう合格も決まっている。やりたいことが決まっていて、そのために選んだ大学。偏差値は関係ない。かっこいいと思う。そんな彼が好きだったし、応援したいとも思った。でも、受験への不安は大きくなる一方だった。蔵内くんが早々に受験を終えてしまって少しさびしかった。合格後も変わらず一緒に勉強をしていたけど、一緒に戦う仲間では、もうなかったから。
 あっと言う間に年が明けて、試験前日を迎えた。受験が終わっていても全員が受ける共通試験。試験日は直接会場へ行くから、蔵内くんに会えるかはわからない。会えたらきっと、頑張れるんだろうな、なんて考えていたら「明日、頑張ろう」と、蔵内くんの方から声をかけてくれて、それだけでわたしは頑張れた。


 蔵内くんがいたから、受験戦争を乗り越えられたのだと思う。だって、頑張らない理由なんて山のようにあった。都心の大学に行かなくてもいいとか、三門市で楽しく過ごせればいいとか、今までのわたしだったら、言い訳ばかり並べて、頑張らない理由にしがみついて、結局中途半端にしか頑張れなくて、もう少し頑張ればよかったのにって、後悔だってしていたかもしれない。
 そんなわたしがずっとやる気を継続できたのは、蔵内くんが隣の席だったからだ。わからなかったことをできるようになれば褒めてくれて、根詰めていれば休憩も必要だと諭してくれて、自分でさえ上手に扱えない感情を、隣からコントロールしてくれているみたいに、わたしの勉強を手伝ってくれた。
 卒業式の日が、蔵内くんに会える最後の日だった。今までのお礼がしたくて、受験が終わってからずっと考えていた。合格発表はまだだけど、そんなことを考える余裕は生まれた。本当はずっと好きだったと伝えたいとも思っていたのだけれど、第一志望に受かっても落ちても、三門市を離れるわたしが、今更そんなことを言えなかった。受験の最中に置かれた身でそこまでのことを考える余裕は、持ち合わせていなかった。
 深呼吸を一つしてから、机に突っ伏せる。教室には誰もいないけど、隣の席にはまだカバンが置いてある。渡したいお礼の品をどうしようかと、ぐるぐる考えるけど答えは出ない。最後にゆっくり話がしたい。直接ありがとうを言ってお礼を手渡したい。もういっそ、帰ったのかどうかわからない状態なら、諦めて帰ったのに、カバンがここにあって、戻ってくるとわかっているなら、もう少しだけ、と粘ってしまう。
 お腹が空き始めて、もう待つのも諦めちゃおうと思った。別に約束してもなくて勝手にわたしが待っているだけで、蔵内くんは何も悪くないし、最後に会ってしまったら、口から好きがこぼれ落ちるかもしれない。
 もしも、好きだと伝えて、迷惑がられなかったら、そんな妄想もやめられないけど、これからどうなるかわからないわたしの未来に、蔵内くんはきっといない。蔵内くんは誠実で、自分のやりたいことにも正直で、きっと、わたしの方が付いていけないと思う。ましてや遠くに暮らしていたら特に。恋愛経験などないに等しいわたしが、うまくやれるとも到底思えない。自信がない。告白して振られるくらいなら、今のいい思い出で終わる方がずっといい。昔好きだった人って、いつかそう思えればいい。
 そんなことを考えていたら、廊下から声がした。ずっと静かだったからびっくりして体を起こす。先生のようなおじさんの声。学年主任かな、なんて考えていれば、その話し相手の声は教室に近くなる。
「がんばれよ!」
「はい。ありがとうございます」
 そう聞こえてきて、声の主にもしかしてと思っていたら、教室の扉を蔵内くんが開けた。
「あれ? まだいたんだね」
「うん。……蔵内くん、待ってた」
「え?」
 正直に言えば、蔵内くんはびっくりした顔をした。でもそれよりも、目が赤いことが気になる。式中も泣いていたけど、また生徒会の人たちと会ったりして泣いたのだろうか。初めて見る顔に、心がざわつく。
 ドキドキとうるさい心臓の音に負けそうな声しか出なくて、もごもごしてしまう。あのね、これなんだけど、とカバンから渡す予定の品を取り出すけど、たぶん蔵内くんにその声は届いていない。近寄ってくる気配を感じて、聞こえる声を出さなきゃ、と強く思う。
「あの!」
「うん」
 気合を入れすぎて大きな声で呼びかければ、蔵内くんはやさしく笑ってくれた。いつもの、大好きな顔。
「ずっと、勉強教えてくれてありがとう。まだ結果はわからないけど、全力で試験に臨めたのは、蔵内くんが隣の席で励ましてくれていたからだと思って、それで、これ、よかったら、その、どうぞ」
「……いいの? ありがとう」
「わたしの方が、いっぱい、いろいろありがとう」
 品物を受け取ってもらって、お礼を伝えられて満足した。死ぬほど緊張した。恥ずかしさで顔を隠してしまいたい。その衝動からマフラーを首に巻いていると「一緒に帰ろうか」と、蔵内くんがつぶやいた。
「え、いいの? 誰か待ってたりしない?」
「うん。せっかくだし、一緒に帰ろう」
 思いがけない提案に頷くけれど、お腹が鳴ってしまったらどうしようなんて考えていた。

 蔵内くんと一緒に帰るのは初めてだった。と言うか、教室以外で話をしたこともない。わたしたちの関係なんて、そんなものだ。考えれば考えるほどちっぽけで、告白なんてしようと思えるわけがない。今こうして一緒に並んで歩けただけで、しあわせ。
「春休み中に引っ越すの?」
「うん。部屋探しは合格発表見てからだけど、ぼちぼち準備してるところ」
「一人暮らしかあ」
 蔵内くんと一緒に帰ることにはなったけれど、家の方向が違うから分かれ道まではもう間もなく。他愛のないどうでもいい話をしていれば、すぐに時間は過ぎ去る。これが最後。そう思うと、なんだかじんときてしまう。
「……春休み、会えるかな」
 声にならない声が出た。開いた口を閉じれない。今なんて? わからなくて、思考がついてこない。どういうこと。
「お礼もらっちゃったし、合格祝い、何かしたいなって」
「……まだ、受かるかわからないよ」
「その時はお疲れさま会。どうかな」
 どうかなって、断る理由はひとつもなかった。けど、そんなことになったら、わたしはどうしたらいいいと言うのだ。思い出にするはずだったのではないのか。思い出とは。
「嫌じゃなかったら連絡して。合否も」
「……わ、かった」
 携帯電話を差し出されて、連絡先を交換する。夢なのだろうか。どう言うことだ。勉強はそれなりにしてきた。でも、今必要な知識は、どの参考書を見ても、理解できる気がしなかった。