春になり、桜を見上げると頭にチラつく女が濃くなる。名前も知らない、一度会っただけの女。服装も制服ではなかったから年齢さえわからなかったはずだ。同年代だろうと勝手に思っていたけど、本当は違ったかもしれない。けれどその答え合わせはする術もなく時だけが過ぎた。
その日はたしか、よく晴れていて、風が吹けば桜が散るような、葉っぱが顔を出し始めた桜のころだった。学校みたいに連なっていない、民家から一本だけ生えたその木を見上げていた女は、異物感があった。道一本で警戒区域になるその家は、もう誰も住んではいない様子で管理されていない草だらけの庭から飛び出した桜の木。その下に、女は立っていた。何をしているのか、声をかけるつもりはなかったけれど、疑問が浮かび、数秒、見つめた。女はこちらに気が付いて、無表情からにこりと顔を変え、背中を向けて歩いて行った。その時自分に対して不信感や嫌悪感を抱いてもおかしくなかったのに、何の感情もむけられなかったことにびっくりした。顔はやさしく笑みを作ったのにも関わらず、何も感じないとは何なのだろうかと、サイドエフェクトがなくなったのではないかとも考えもしたが、その後本部まで行けばいつも通り、いろいろな感情が刺さってきて、自分が通常であると思い知らされた。
その後、同じ道を何度通ってもその女に会うことはなかった。もしかしてこの家の住民かと思って表札を見たけれど、古くなっていて、なんて書いているかよくわからなかった。そしてこんなことをしている自分に疑問がわいて、それ以来、気にするのをやめようとした。
桜が咲き始め、思い出す頻度が増えたけれど、会えないままだった。幽霊だったと思う方がよっぽど自分にとっては都合がいいような気さえしていた。
「影浦くん」
「……は?」
ある日突然、その女は現れた。桜も散ってすっかり青々としているのに、前みたいにその女は立っていた。そして、自分の名前を呼んだ。誰だか心当たりはないし、今回は感情を向けられている。友人に対するレベルの好意。
「学年一つ違うしわたしはもう卒業したけど、同じ学校だったんだよ」
「そっすか」
たしかに学校ではボーダー隊員だと言うだけで、顔と名前が知られやすい。だからと言って、一度会っただけの自分に親しみを込めて名前を呼んでくるなど、不用心にも程がある。
「学校で話しかけようって思ったこともあったけど、特に用事なかったから。迅とは同じクラスだったんだけど、でも二人、仲がいいってわけでもなかったでしょ?」
「そっすね」
「……去年、ここで会ったの覚えてる?」
「覚えて、ます」
くすぐったい。影を追っていた存在が、同じように自分を見つけていたこと、何とも言えないムズムズした気持ちになる。そして受信してしまう感情も、くすぐったさを手伝っている。
「また会えるかな」
年上の女なんて、今までほとんど接したことがないからどんな態度をとればいいかもわからない。曖昧に返事をしたのに嬉しそうに笑う彼女と、これからどうなるのか、予想もつかずただただ困惑しているのを悟られないようにするので精いっぱいだった。