補習授業のせいで、ずいぶん帰りが遅くなった。みんなはこれから本部に向かうらしいが、よくそんな体力があるなと感心する。行ってもやることがあるわけでもないわたしは、おとなしく帰って家で明日のために予習の和訳でもした方がいい。
 帰るからまたね、そう声をかけて、道を分かれた。カバンの中のイヤホンを探していたのに、なかなか見つからなくて、暗いから仕方ないかと、一瞬立ち止まる。自分の足音がしなくなって、閑静な住宅街特有の、しんとした空気が流れる。嫌な感じがして、イヤホンを早く見つけたかったのに、遠くから少し速い足音が聞こえてきて、びくびくしながら振り返った。暗くて姿はまだ見えない。単に、近所の人の犬の散歩だとか、ランニングかもしれない。でも、違うかもしれない。怖いから、背中を知らない家の塀にくっつけた。背後をとられなければ、ちょっと安心な気がする。
「何してんの?」
「……そっちこそ」
 小走りで現れたのは奈良坂くんだった。制服姿に重いカバンを抱えているから走りにくかったはずなのに、呼吸は乱れてない。さすがだなあ。
「用事思い出して」
「ふーん」
 変質者でないことに安心して、寄りかかっていた体を起こす。イヤホンをみつけるのは諦めた。
「置いてくぞ」
 そう言って追い抜いて行ってしまうけど、今度は歩みが遅い。もしかして、追いかけてきてくれたのだろうか。隣に並んで、歩く彼を見上げるけど、いつもどおりのすまし顔だ。
「……もうすっかり夏も終わりだね」
「そうだな」
 話題がなさすぎて、どうでもいいことを口にする。もう少し、気の利いたことを言いたいと思っても何も思いつかない。それくらい、共通点がない。ボーダーで一緒だと言っても、彼はA級の三輪隊で、かたやわたしはその辺のなんでもない、隊にも属してない普通のB級隊員だ。スナイパーは訓練もいつも別だし、こんなことなら辻くんの方がまだよかったな。話さなくても気まずくないし、同じクラスだし。
「なんか、今日の月、大きくない?」
「低いとデカく見えるらしい」
「へえー、きれいだね」
 口にしてから、ハッとする。最近クラスで、夏目漱石の告白が流行っていて、そう言って付き合ったカップルがいたから、安易に口にしないようにしないといけないんだった。彼がその噂を知っているかはわからないし、この言葉になんの意味も含んではいないけど、なんだか気まずい。
「……そういえば、今年の十五夜っていつなのかな?」
「今日が満月なら、また一か月後だろ」
「なるほど。周期的に考えたらそうだね」
「月の事とか、気にするようなタイプだったんだな」
 空を見上げた顔をおろせないのは、照れ隠しじゃない。奈良坂くんが持ってるわたしのイメージは、正しいと思う。でも、仲良くもないはずなのに、よく知っていた風にそんなことを言うなんて、ずるくないだろうか。そう。奈良坂くんがずるいことを言ったのがいけない。そもそも、聞かなかったけど、用事って、どこでなんだろう。知らないけどたぶん家、方向違くない?
「そうだけど、せっかくなら、見れたらいいじゃん」
「一緒に見る?」
 びっくりして、おろせなかったはずの顔をつい向けてしまった。彼はいつものすまし顔で、からかわれているのかもしれない。顔、きっとめちゃくちゃ赤いと思う。どうか、この暗さでわかりませんように。
「月が綺麗ですね」
 答えは知っているけど、言ってはいけない気がした。だって、言ってしまったら、そう言う意味じゃなかったって、笑われそうだし。私の目じゃなくて、月を見てそう言ってくれたら、私もそうだねって返して終わりにできたのに、こんなのずるい。
「……答え、言いたくなかったらいいけど」
「それって、私が奈良坂くんのこと好きって前提なんだ、え、あ。いや、なんでもない」
 奈良坂くんの言葉に、それ夏目漱石? って言って、笑って適当に誤魔化せばよかった。答えはひとつしか浮かんでなくて、それを言いたくなくて黙ってしまった。でも、答えって、別に、断るって選択肢だってもちろん残っていたはずだ。なのに、それを選べる気がしなかった。決まり文句に決まり文句で返すことが、当然だと思って、私が断る気もなかったのが、バレた。
「そんなに頭悪かったっけ」
「奈良坂くんの前だと、ペース合わない」
「こっちの都合いい様に、受け取っていいの?」
 まだ好きって言える自信はない。かっこいいとは思ってるし、学校の勉強だって手を抜かずに狙撃手二位なのもすごいと思う。そんな人が、なんで私にこんなこと言うの。
「なんとなくで、そうなりたくないから、来月また言って」
「わかった」
 奈良坂くんはずっとすまし顔だったくせに、最後の最後にちょっとだけ、照れたような顔をして、また、ずるいなあと思った。私だけが、私ばかりが、彼に心を揺さぶられている気がするけど、彼もまた、私に心を揺さぶられているのだとしたら、とても、嬉しい。